2021-04-07 第204回国会 衆議院 文部科学委員会 第9号
それで、九八年に伊能忠敬記念館というのができまして、そのときの担当部長が、いや、これはもう、町並みもこうで、いいタイミングなので、一気に今、佐原の大祭を国の指定に持っていくのを頑張りますと言ってくれたんだけれども、正式に文化庁の方へ行ったら、千葉県がそこまで言うなら、じゃ、千葉県内でどれだけお祭りがあって、その佐原の大祭の位置づけはどういう格付なんだ、千葉県としてどのような見解を持っているんだ、そう
それで、九八年に伊能忠敬記念館というのができまして、そのときの担当部長が、いや、これはもう、町並みもこうで、いいタイミングなので、一気に今、佐原の大祭を国の指定に持っていくのを頑張りますと言ってくれたんだけれども、正式に文化庁の方へ行ったら、千葉県がそこまで言うなら、じゃ、千葉県内でどれだけお祭りがあって、その佐原の大祭の位置づけはどういう格付なんだ、千葉県としてどのような見解を持っているんだ、そう
大臣は伊能忠敬のお話をされましたけれども、私も、少年時代、青年時代、千葉県に住んでおりましたもので、大変懐かしく、興味深くお話を伺わせていただきました。 法務行政は日本という国のあり方にかかわる大変重要な行政でありますから、大臣が言われたように、子や孫の時代の日本というものを見据えながら、今やるべきことを着実にやっていくことが特に重要だというふうに考えております。
しかし、先日、大臣所信を伺っておりましたら、森大臣が伊能忠敬さんのお話をされていらっしゃいました。郷土の偉人伊能忠敬は云々、四万キロ歩いて日本全図の完成という驚くべき事業をなし遂げました、こういう御発言でございました。私も大変な偉業だと思います。つたない知識ではございますが、それは理解をしております。
これは二十五年前からこつこつと海上保安庁がこれをスタートさせて努力をし続けて、二十五年間ほとんど、間宮林蔵かあるいは伊能忠敬の世界になっちゃうのかどうか知りませんが、海底を全部調べて、それで国連に提出をされているというふうに聞いておりますので、こういう努力を続けられている海上保安庁に敬意を表すと同時に、最後に海洋政策担当大臣としての海を守る決意を伺いたいと思っております。
例えば、中学校の心のノートの中には伊能忠敬ぐらいしか出ていないんですかね、やり直すには遅いものはないという。残りはほとんど出ていないような現状なわけですよ。 だからこそ、心のノートに歴史的な偉人とか、そういった大切にしてきた道徳心とかをきっちりと書き込む。それはいかがお感じになっているか。もう時間ですので、是非、最後に大臣、お聞かせ願いたいと思います。
私の郷土の偉人伊能忠敬は、知命を超えてなお、人間は夢を持ち、前へ歩き続ける限り余生は要らないと四万キロメートルを歩き続け、日本全図の完成という驚くべき事業を成し遂げました。そして今、我々は、より良い国づくりを目指し、司法制度改革を始めとする改革の道を歩き続けています。改革に当たり重要なこと、それは、未来を見通し、さかのぼって今何をなすべきかを決断していくことであります。
私の郷土の偉人伊能忠敬は、知命を超えてなお「人間は夢を持ち、前へ歩き続ける限り余生はいらない」と四万キロメートルを歩き続け、日本全図の完成という驚くべき事業をなし遂げました。そして今、我々は、よりよい国づくりを目指し、司法制度改革を初めとする改革の道を歩き続けています。改革に当たり重要なこと、それは、未来を見通し、さかのぼって今何をなすべきかを決断していくことであります。
それから、伊能忠敬、これは商人の家に養子に行って、傾きかけた家業を立て直して、それで自分は天文学をやりたい、自分より若い先生に江戸へ出て習って、そして幕末に外国人が来て仰天したようにすばらしい日本地図を作ったということですから、例えば老いといっても、むしろ老いが本当の人生ですよという生き方が江戸時代にはあったと、こういうことも一つ参考になろうかと思います。
○国務大臣(麻生太郎君) 元々は、千島、樺太等々、伊能忠敬、江戸時代に出てくる学者ですけれども、伊能忠敬にさかのぼって、少なくとも長い長い歴史の中で、あそこは半島ではなくて島であるとかいろいろなことをずっと調べ上げていった長い経緯があります。もう御存じのとおりです。
○藤本政府参考人 ちょっと補足をさせてもらいたいと思いますが、地図とそういう国防とのかかわりみたいな話、伊能図も、先生御承知かどうかあれですけれども、シーボルトが伊能図を海外に持ち出したというので、結局、その持ち出した張本人、伊能忠敬の恩師の息子さんが獄死をしているとか、何人もつながれたとかいうこともございますし、明治に入っても、地図が機密漏えいをしたということで、いろいろな事件が起こったりしております
○土肥委員 シーボルトが持ち出したのは、これはやはり日本の機密情報、地図情報を持ち出したわけでございまして、それはとがめられるところがあるわけでございますけれども、江戸幕府が伊能忠敬に計測をさせて、それは立派な日本地図が初めてでき上がるわけですから大変結構なことですけれども、何か軍事情報と関係があるのかなということを懸念しただけでございます。
ただ、測量ということをいえば、伊能忠敬、今大臣もおっしゃいましたけれども、並外れた人物が江戸末期に登場しまして、一八〇〇年、五十歳になって、まず蝦夷地に行く、北海道に行く。そうなると、私は、北方領土は行ったのかなとか、そんな感想も持ったり、すごい人だ、こう思うわけでございます。
それから、伊能忠敬さんの地図を私、実は海上保安庁にすばらしい地図が残っていたんです。ちょっと、一か月ぐらい前の新聞にもそれ出ていましたですけどね。私はもう早速行って現物見ましたけれども、やはり自分が歩いたところには全部赤い線を入れておりまして、そしてところどころで立ち止まって、北斗七星との関係で天文学的にその位置をやはり測量した地点をそこへ書き込んであるんですね。
○北澤俊美君 伊能忠敬のお話も承りました。確かに大変な才能の持ち主であると同時に意思の強さを感じて、私も今回いろんなものを読んでそう思ったんですが、焼けてなくなるということからいいますと、一番残念だったのは、終戦の二十年に参謀本部の測量部が長野県の松本市の隣にある波田町へ疎開をしようとしたんですね。
先ほど先生、伊能忠敬のお話ございました。江戸時代の伊能忠敬というのは御承知のとおり非常に精密な地図を作ったわけでございますけれども、全国を網羅的にある一定の水準の地図を作ったという意味では伊能忠敬が一番最初と、日本では最初ということのようでございます。
昔の江戸時代の隠居というのは、四十代であろうと二十代であろうと、一財産つくった人間が、もういい、これからは稼ぐ必要はない、一生生きていけるだけの金は稼いだ、だから、たとえ四十であっても隠居して、例えば日本地図をつくった伊能忠敬さんなんというのは、あの人も隠居ですよ。
○近江分科員 伊能忠敬さんという人が、高齢になってから日本国土全部を測量された。長期間かかったわけでございますが、この毛利さん、地球の七割以上の正確なデータを収集された、まさに現代における伊能忠敬さんではないか、このように思うわけでございます。 考えてみれば、毛利さんも、最初の搭乗が九二年ですね。そして、九六年にさらに搭乗技術者を目指して挑戦をされた。
伊能忠敬、この方も引退してから四万キロ以上歩いて、ペリーがびっくりしたような日本地図をつくり上げた。 だから、そういう老後に高い価値を見出す。皆様方が政治家をおやめになったら、その後、どういう楽しみを持って生きていかれるか。いや、おれは死ぬまで政治家をやるという方でも結構なんですけれども、仕事で永遠にやってもいい、楽しみでやってもいい。
この間、テレビを見ておりますと、伊能忠敬のドラマがございました。すばらしい方ですよね。あるいは一万円のデザインになっております福沢諭吉等も緒方洪庵の塾にいて勉強した人であります。そういった方々な一回ひとつシリーズでやってみたらどうだろうか。
言うまでもなく、伊能忠敬が二百五十年前に調べたものをもって嚆矢とするのが世界史の常識じゃないですか。後、言葉はございませんでしたけれどもね。そういうような形ででも、あらゆる場面であらゆることをやっていかなければなりませんので、大臣には格別ひとつ国際関係での手の打ち方ですね。
伊能忠敬でも出てこないと、いま日本の国土ははっきりしないのかもわかりません。登記所に行ってもわからない。建設省もわからぬ。歩いたことがないからわからぬ。どこに一体正確な地図があるのかわからぬ。図書館をさがしてもわからぬ。結局、建設省とか国土何とかとか、だれやかれやといいながら、ほんとうはわかったようなわからぬようなことでございます。
これは土地でいうならば、日本全体の土地を、伊能忠敬じゃないけれども、すっかり測量しちゃって、それを前提にするのでないと、大きな開発計画は私は立たぬと思う。しかし、そういうことはむずかしいと思うのですけれども、やはり労働政治、労働政策という以上は、労働力はどこにあるのか。農村の労働力を持っていく。農村の定着率の最低はいま三%しかない。全国的には、いま六%なんです。
○吉田(賢)委員 ひとつ新しい戦後の伊能忠敬でも出るくらいな覚悟を持って、この問題はほんとうに抜本的に、すみやかに科学的に解決をしてほしいと思います。建設省、よろしうございます。 それから最後に、私は労働省の失業保険につきまして伺ってみたいと思うんであります。
古い歴史、或いは同じく社会科の地図の中には、例えば伊能忠敬が調べた地図を見ますと、国後は日本の北海道に属しております。こういうふうに一体現在千島をどの範囲に政府は見、又教育の面でもどういうふうにしておられるのか、この点を明らかにしたいのですが、先ず以て外務当局として千島の範囲をどういうふうに見ておられるのかこれを伺いたい。
その中の一つとして我々見て参つたのはあの移能忠敬の古跡でありまするが、幸い国庫補助によつて伊能忠敬の居宅は完全に修築を見たのでありますが、その中に保存されておるいろいろ得難い資料が非常に立込んだ、火災の虞れの多い個人の蔵に蔵されておりまする。これを何とか完全な倉庫にして保存したいということが関係地方民の熱心な要望であつたのであります。